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2000年10月16日

エドワード黒太子

エドワード黒太子(1330 - 1376)

エドワード3世とフィリッパ・オブ・エノーの長子。

イングランド王家にプリンスはたくさんいるけれどブラックプリンスといえばこの人。
とにかく強かった!
百年戦争前期における主要な戦闘に参加し、ほとんどの戦いで勝利。
中でもポワティエの戦い(1356)では数的には劣勢ながら、フランス王ジャン2世を捕虜とし、イングランドの勝利を決定的にした。

これだけ強い!ってだけでもヒーローの条件ぴったりですが
ハーレクイン的に注目なのは彼の結婚。


父エドワード3世の従妹ジョアン・オブ・ケントと当時では珍しい恋愛結婚。なんとお相手ジョアンは既に2度の結婚をしていて、プリンスとは3度目の結婚・・・おまけに年上。この悪条件をものともせず、周囲の大反対を押し切って・・・というからスゴイ。

プリンスより2つ年上の幼馴染。キリスト教世界で一番の美女と称えられたジョアン。エドワード、リチャードの2人の息子をもうけたが、エドワードは早世し、リチャードが後にリチャード2世として即位している。



ということで、再度ブラックプリンスの戦績を


クレシーの戦い(1346)16歳ながらフランス王フィリップ6世が率いるフランス軍を破った。
カレー包囲戦
ウィンチェルシーの海戦

1355年からボルドーに派遣され、アキテーヌにおける領土を拡大し、1355年までにはフランス南部の多くを支配下に入れた。

ポワティエの戦い(1356)イングランドの大勝利

1362年、アキテーヌ(フランス)を割譲、プリンスに任じられ、フランス南部の広大な地域を支配。前年10月に結婚したばかりの新妻ジョアン妃をともなってボルドーに赴任。弱冠32歳。

1367年、カスティリャ王国の内戦で、フランスが支援するエンリケ2世(恩寵王)に破れて亡命してきたペドロ1世(残酷王)を支援して遠征し、フランスのゲクラン大将とスペイン軍にナヘラの戦いで大勝した。しかし、この頃から黒太子は病気がちになった。ペストに侵されていたという説もある。

1369年に再び百年戦争が再開。

しかし病に臥せっていた黒太子は戦場に出て指揮を執ることができず、イングランド支配下にあった城、都市は次々とフランス軍に奪回されていった。アキテーヌの大部分を失い、病が重くなって戦場に出ることもできなくなった黒太子は1371年に本国に帰還。

父王に代わって国政を牛耳っていた弟のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントから実権を取り戻し、乱れていた国政改革に着手したが、志半ば1376年に47歳で病死した。父エドワード3世は翌年に死去し、王位は黒太子の息子リチャード2世が継いだ。




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1999年10月18日

ジョアン・オブ・ケント:エドワード黒太子妃

ジョアン・オブ・ケント(1328-1387)
エドワード黒太子(エドワード3世長男)の妃。初代プリンセス・オブ・ウェールズ。
リチャード2世の母。

「美しきケントの乙女(Fair Maid of Kent)」といわれ、
当時「英国で最も美しく、最も愛すべき女性」とたたえられた。
初代ケント伯爵エドマンド・オブ・ウッドストック(エドワード1世の2人目の妃、マーガレット王妃の次男。エドワード2世は異母兄になる。)とマーガレット・ウェイクの娘。

0307237915The First Princess of Wales: A Novel
Karen Harper
Broadway 2006-12-26

by G-Tools

「英国の薔薇」というと王太子妃でありながら王妃となれなかった、
あの悲劇のダイアナ妃を思い浮かべますが、
初代プリンセス・オブ・ウェールズであったジョアンもまた
夫、エドワード黒太子の死によって王妃となれなかった、
これまた美しく悲しい英国の薔薇のおはなしです。


ジョアンが生まれる1年前の1327年、エドワード2世の王妃イザベラとロジャー・モーティマーが、国王であったエドワード2世を退位させ、息子であるエドワード3世が即位します。

ジョアンの父ケント伯エドマンドは、エドワード2世妃イザベラ・オブ・フランスとその愛人ロジャー・モーティマーに逆らって、異母兄エドワード2世を支持したとして、反逆罪でジョアンが2歳の時に処刑されました。ジョアンの母と4人の子供たち(ジョアンは末っ子)は、エドマンド処刑の後、居城であるアランデル城に軟禁されます。

エドマンド(ケント伯)の反逆罪とは
エドワード3世の摂政としてモーティマーは権力を手にし、自らをマーチ伯爵に叙します。モーティマーの私欲と権力の濫用が目に余ったため、エドワード3世の保護者であったケント伯爵(エドワード2世の弟)は、モーティマーに対抗して立ち上がります。しかし、失敗し、彼の屋敷は没収され、高額の罰金を支払って戻ることが許されます。そこでイザベルとモーティマーは、ケント伯爵を陥れる陰謀を計画します。偽の手紙を作り、エドワード2世がまだ生きており、ケント伯爵の助けを求めていると思わせます。ケント伯爵は、死んでいる兄に助けに行くと手紙を書き、これが企んだとおりモーティマーの手に落ちます。これを持って反逆罪の罪で、ケント伯爵を逮捕し勾留します。若い国王が彼の叔父に慈悲を見せる前に、処刑を急ぎました。誰もケント伯爵の首を刎ねることを引き受けません。前の国王の弟は、皆に尊敬されていたのです。最後に、マーシャルシー牢獄に捕えられていた死刑囚が、伯爵の首を刎ねたら死刑判決を取り消す約束をもらって、実行しました。モーティマーは、ケント伯爵の土地を自らの兄弟に分配しました。


この事件をきっかけに、エドワード3世はクーデターを決意。モーティマーを逮捕・処刑し、母イザベルを監禁、親政をはじめます(1330年)。

エドワード3世と心やさしい王妃フィリッパは、従妹であるジョアン(妃にとってはまたいとこ)を宮廷に呼び戻し、自分たちの息子であり後に黒太子として知られるエドワードたち王族の子弟と一緒に彼女を育てます。2歳年下のエドワードとは幼馴染の間柄。
ロマンス小説的には美しい幼馴染へのプリンスの秘めたる恋、相思相愛の大恋愛の末・・・と想像をめぐらせてしまいますが、史実のほうは・・・。

なんとジョアンにはエドワードと結婚するまでに2人の夫がいます。
まずは1340年、ジョアン12歳の時にトマス・ホランド(1314-1360、ガーター騎士団のひとり)と結婚。これは王の承認を得ない秘密結婚でした。(当時は王から事前の承認を得ないと反逆罪に問われ処刑されることもあった。)

さらに翌年トマス・ホランドが十字軍遠征に参加している間に、なんと結婚の事実を知らない周囲がジョアンをエドワード3世の寵臣であるソールズベリー伯ウィリアム・モンタギューの息子(ウィリアム)と結婚させてしまいます。そっ、そんなことが可能なのか・・・!?

当然トマス・ホランドは帰国後、ジョアンを取り戻すべく国王とローマ法王に訴えます。ジョアンはトマスのもとへ戻りたがっていましたが、モンタギュー家に監禁されてしまいます。1349年、ジョアンが21歳の時、ようやくローマ法王はジョアンとウィリアム・モンタギューの結婚の無効を決定し、彼女がトマス・ホランドのもとへ帰るのを許します。なんと波乱万丈の結婚ですね!
トマス・ホランドとは、その後1360年に彼が亡くなるまで結婚生活を送り、4人の子供に恵まれます。う〜ん、幼馴染エドワードの恋とはどこでリンクするやら??

まっ、とにかくロマンス的には

エドワードは人妻となっていたジョアンを長年想い続けていましたということにしよう。
さて、ジョアンが若くして未亡人となるや(ジョアン32歳)、猛烈にアタックを開始。二人の関係は親密になっていきます。エドワードの母、王妃フィリッパはじめ周囲のものは、このことを知ると二人の関係に大反対します。ジョアンのことは幼いころから可愛がってきたとはいえ、なにせ、息子エドワードは、今をときめく、あのブラックプリンスですよ!どんな相手だって選べるものを、それがよりによって、子持ちの未亡人・・・おまけに若くもないし・・・。

ジョアンとエドワードは、反対を押し切るため、またもや秘密結婚をすることに決めます(血縁の近いふたりの結婚には法王の許可が必要)。「禁じられた恋に燃え上がる」というのもロマンスの一大要素ですが、結婚への経緯、ほんとのところ、この辺の史実はよくわかっていません。まっ、想像を巡らすのは自由です!!う〜ん、ラブラブ)

あわてた父王エドワード3世は、ローマ法王の特別許可を得る手はずを整え、1361年10月、ついにエドワード3世と王妃フィリッパの出席のもと、カンタベリー大主教によって正式にふたりの結婚式がとり行われました。若いエドワードは、アキテーヌ公に任命され(フランスにある英国領)、ジョアンとともにアキテーヌ公国に移り住みます。そこで長男エドワードと次男リチャードに恵まれます。

しかし、幸せは長くは続きませんでした。
長男エドワード・オブ・アングレムが6歳で亡くなり、このころからエドワード自身も病に冒され始めます。それでもエドワードは、カスティリアのペドロ王のために戦い、最初のうちは大勝利を治めます。ペドロが死んでからは財政的にも苦労の連続。フランス側からの反撃も執拗で、ジョアン自身も、夫の留守中にアキテーヌを護るために兵を起こさなければなりませんでした。

エドワードの体調は日増しに悪化し、とうとう夫婦は息子リチャードを連れて1371年、英国に戻ります。エドワードは、それから5年後の1376年に47歳の若さで死去してしまいます。翌年エドワードの父エドワード3世が死去します。こうして残されたジョアンの10歳の息子がリチャード2世として即位します。リチャードの治世は従弟であるヘンリー(ヘンリー4世)にその座を追われるまでの22年間に及びますが、息子の悲劇的な最期を見ることなく、ジョアンは1387年に亡くなります。


ちなみに有名なガーター勲章の起源ですが、
エドワード3世と踊っている最中に、相手の貴婦人のガーター(靴下留め)が外れて落ちた(今の感覚では下着を落とすようなもの)。このガーターを王は黙って拾い上げ、「他人を悪く言う者に災いあれ」と、相手の婦人が恥をかかないようにそっと自分の上着の袖につけたのがガーター勲章のはじまりという逸話がありますが、この貴婦人こそが若きころのジョアンであったと言われています。

プリンセス・オブ・ウェールズの称号について
黒太子エドワードは2代目プリンス・オブ・ウェールズであり、
初代は彼の祖父であるエドワード2世だった。
しかし、その妃のイザベル・オブ・フランスは夫が国王に即位したのち結婚したため
この称号を持たなかった。このため初代プリンセス・オブ・ウェールズはジョアンとなった。

ジョアンが登場するハーレクイン
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